肥薩線100年のあゆみ
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01 JR九州第一球磨川橋梁 肥薩線100年のあゆみ

◆南九州に鉄道を

南九州に鉄道を  九州に鉄道が開業したのは明治22年(1889)のこと。博多から筑後川北岸の千歳川仮駅に至る鉄路をドイツの技術導入によって敷設し、蒸気機関車を運行。人びとを驚かせました。この頃すでに南九州には鉄道誘致の動きがあり、明治政府は九州縦貫鉄道の建設を決意します。地形の急峻な八代〜鹿児島間では、東シナ海に沿う海岸線や一部山側を通る中央線、人吉経由で加久藤峠を越える険しい「鹿児島線」の誘致合戦があり、艦砲射撃などの標的となりにくい山越えルートの「鹿児島線」が採用されました。

◆国家の威信をかけた大工事

国家の威信をかけた大工事  平地の多い八代までの区間は明治29年に開業。宇土から八代までは九州鉄道株式会社の手による敷設でした。八代〜人吉〜鹿児島間は明治政府による官営鉄道。まさに国家の威信をかけた大工事が計画されました。しかし鹿児島線には60箇所のトンネル、90箇所におよぶ橋、急勾配を克服するための日本初のループ線、スイッチバックなど、難工事が待っていました。明治30年に開始されるはずの工事は財源不足などで延期が相次ぎ、鹿児島側からの工事が始まったのは32年、八代側からは34年のことでした。工事には北部九州で導入されていたドイツの技術ではなく、アメリカの鉄道技術を採用。球磨川の橋梁群や当時導入された蒸気機関車の写真などに痕跡を見ることができます。

◆南からの開業、北からの開業

南からの開業、北からの開業  明治34年、鹿児島〜国分(現隼人)間が開通し、36年までに順次延伸。現在もそのままの姿で残る嘉例川駅や大隅横川駅もこの時に開業しています。八代側からはすでに明治39年、八代〜坂本間が開通していましたが、これは九州製紙株式会社の工場輸送が目的でした。急流球磨川に沿う川線は明治41年に八代〜人吉間が全線開通。今も当時の面影を残す坂本、白石、一勝地、渡などの駅もこの年に開業。門司〜人吉線は「九州線」と呼ばれました。

◆最大の難所「矢岳(加久藤)越え」

最大の難所「矢岳(加久藤)越え」  「山線」の愛称で親しまれる人吉〜吉松間は加久藤カルデラの火口壁を越える急峻な峠越え。工事は明治38年に着手されました。道なき山に作業用の道路を開き、人馬の力で資材を運搬。トンネル工事では出水もあって工事は難航しましたが、レンガや切石を用いた近代的な工法で、着々と進捗してゆきました。明治42年11月、矢岳第一トンネルの開通によって鹿児島線全線が開通。門司〜鹿児島間を結ぶ九州縦貫鉄道は完成します。この開業は、青森〜鹿児島間を結ぶ日本縦貫鉄道の完成でもありました。

◆鹿児島本線、そして肥薩線へ

鹿児島本線、そして肥薩線へ  全線開通とともに九州線人吉本線は鹿児島本線と称され、旅客列車、貨物列車、その両方を繋いだ混合列車が行き交う九州の動脈となりました。幾多の戦争や自然災害にも遭いましたが、明治の鉄路は災害に強いと定評があります。昭和2年(1927)、八代〜川内〜鹿児島の海岸線の開通で鹿児島本線の名称はそちらに移行。現在のルートが肥薩線と呼ばれるようになりました。

◆肥薩線の今、そして未来

肥薩線の今、そして未来  開業以来活躍した蒸気機関車は昭和26年のディーゼルカー登場以来次第に姿を消し、昭和48年に廃止。高度経済成長期には準急「くまがわ(後に急行に格上げ)」や「えびの」「やたけ」をはじめ、特急「おおよど」も経由するなど、肥薩線は大いに利用されました。昭和62年に発足した九州旅客鉄道では平成16年の九州新幹線部分開業を機に肥薩線を生きた鉄道遺産として位置づけ、観光列車を拡充。平成21年のSL人吉運行によって全線を個性的な観光列車で旅するルートが完成しました。新幹線全線開業を見据え、肥薩線は便利で素敵な100年レイルとして発展を遂げていきます。
 肥薩線を未来へつなぐ協議会では、肥薩線の歴史的文化的価値を検証し、その保存活用を図ることにより肥薩線を未来へ継承することを目的として、また、 肥薩線利用促進・存続期成会では、肥薩線の利用促進や存続に向けた活動を推進することを目的として、様々な事業に取り組んでいます。